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執筆者の写真Mami Sato

「私」という個

Recognition of Me Is 我が家には小さな小さな庭があって、そこで少しハーブを育てている。 憧れのハーブ庭園、と、言えたら本当は素敵なのだが、現実は、茫々(ぼうぼう)と無法地帯になっている状態だ。正直、育てているというのも恐縮で、実際は、勝手育ってくれていると言った方が正しい。 その茫々の庭で何年も生き延びていたフェンネルが今年はひときわ大きく育ってくれて、この夏はお茶に料理に友人宅への贈り物にと、とても私達を楽しませてくれた。 その後、仕事がすこし忙しくなったため、しばらく庭に降りることのない日々をすごしていたのだが、ある朝、久しぶりに窓から庭を眺めてみたら、フェンネルがほぼ丸坊主になっていた。 いったい何事かと、驚いてサンダルをつっかけて庭に降りてみれば、かがやく朝の光の中で、丸々太ったヘンテコ模様のイモムシたちが、一心不乱にフェンネルを食べているのが見えた。 一目見て、卒倒しそうになったが、そうはいっても我が庭で起きていること。苦手でも直視せねばならぬ・・・と、半泣きで目を凝らしてみれば、緑と黒のしましま模様のまるっとした幼虫が、ひーふーみーとなんと10匹も、かわいそうなフェンネルをハゲさせていた。もはや、葉も花もほとんど残っておらず、何匹かは食べるところを探してウロウロしている。彼らに罪はない。・・・でも、こわい。 動揺しながらネットで調べてみると、すぐに彼らがキアゲハの子供だということが分かった。あのヘンテコな模様も、外敵を怖がらせるための智慧らしい。確かにそれは私に対して確実に成功しており、すばらしい効果に、誰かタスケテ、と内心感心しつつ、同時に途方に暮れた。何に途方に暮れたかというと、この子達のエサがどう見ても足りず、このままでは、10匹の餓死を見守ることになるかもしれない、ということに、だ。・・・これはまたこれで、こわい。 どうしたらいいのだろう。たまたま朝から話を聞いてくれた友人に相談したり、ほかのエサの可能性や生態などを調べてみたりしているうちに、だんだんこわい以外の感情が沸いてきた。どうも、アゲハ蝶の幼虫がここまで大きくなるのは、本当に本当に大変なことらしい。それでも、ここにいる皆はここまで頑張って大きくなったのだ。それも、我が家のフェンネルだけで。 死なないでほしい。 そして、できれば綺麗な蝶になってほしい。 愛情というか、責任感といえばいいのか。不思議な感覚が湧いてきて、もう怖かろうなんだろうと、エサが不足しているなら私の力で何とか・・・、と覚悟を決めた矢先、そんなことなどおかまいなく、なんと幼虫たちが急にフェンネルから一斉に降り始めた。そして、幼虫の身体では不便だろうに、地面を歩き始めたのだ。なにがどうした、空腹の限界か。 もはや怖いのか、愛情かわからない。私は複雑な感情を抱えて棒で助けようとしてとんだ迷惑をかけたり、邪魔になってしまったりしているうちに、彼らは各自さっさと我が家の壁に上って、さっさとヘ音記号のような形になり、そしてそのまま示し合わせたようにゆっくり停止してしまった。





・・・夕方になって、皆さんとの対話も終わり、ひと段落ついたところで、壁のヘ音記号たちのことを思い出した。急いで庭に見に行ってみると、あの緑色のイモムシ達がどこにもいない。でも代わりに、カサカサした茶色っぽいサナギ達がそこにいた。


一瞬、ん、どちら様?という気分になった。あんなにフクフクしていた幼虫が、まったく似ても似つかない別の姿になっていた。あまりに姿が違いすぎて、一瞬、別の存在かと疑いたくなったが、まだ変化の途中の幼虫もいて、間違いなく、かのイモムシがこのサナギになったことを証明していた。知識では知っていたが、こうして目の当たりにすると、ものすごい変容ぶりだ。あのヘンテコ模様もすっかり消えていた。



さらにネットで調べてみると、変容はそれどころではなかった。なんと、幼虫から蝶になるためには、数日間かけてサナギの中でいったんすべてが液状になってから、蝶を0から形成するというではないか。そこまで自分が変容するなんて、ものすごいことだと思った。自分が今の姿ではなく、例えば、溶けてまったく違う形になるとしたら、その過程も含めて、私だったらどう感じるだろうか。




自分、とは形そのものではないことを、目の当たりにした気分だった。




この「私」自身の体もそうだ。体は、細胞で構成されているらしいが、聞くところによると、この体を構成している細胞も、毎日、死と再生を繰り返していて、体の大多数が、数日~数年でほとんど別物になるらしい。とすると、もし体=私だったら、細胞の死と共に、別人になっていくはずだ。でも私は消えず、子供の時から今日まで私のままだ。とすると、この体が、私とは言えない。




「私」とは、なんだろうか。




少なくとも、目に見える形として触れられるものが、私そのものではない。





数日後、かがやく朝の光の中で、新しい蝶がいるのを見つけた。とても綺麗な羽の、キアゲハだった。そして、空っぽになった抜け殻の横で、新しい自分の姿を確認するようにゆっくり羽を動かしている様子に、動いているすごさとあらゆる不思議を感じて、感動した。


おどかさないように距離を取りつつ、しばらく眺めているうちに、嬉しさや感動だけでなく、徐々に尊敬の念が湧いてきた。彼らは、自分が望む望まないとは関係なく、どんな姿形に自分が変容しても、いつもそれを受け入れ、そのときの自分に見合うことを一生懸命しながら、こうして今を生きている。


そうこうする内に、キアゲハは、いきなりぐんっと羽ばたいた。そして、そのまま一気に飛びあがって、あっという間に家の屋根の超えていってしまった。一抹のさみしさと共に、なんだか深く安心した。


結局、出会ってからここまで、キアゲハの子供達に対して私にできることは何もなかった。どんな時も彼らには祝福があり、常に自然さによって導かれ、その時に必要な力をその時に注がれ、いつのまにか成長し、時が来たので羽ばたいていったのだ。この先もただ導かれて生きていくのだろう。最後の瞬間まで、ずっと。




自分も同じなんだろうな、とわかって、力が抜けた。





そんなに、心配しなくていいのだ。


どんな物語が「私」という個に繰り広げられても、万物もれなく「愛」なのだから。





それでも祈りたい。


どうか、あの蝶たちにの未来に、素敵な出会いや幸せがありますように。



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