いつか晴れますように
どうやら決まった曲しか聴かないタイプのようで、最近の流行りの曲とかもあまりわかっていない。もしかしたら、そういう情報が入ってくる機会もそれほどないということも、要因のひとつではなかろうか。でも、音楽自体はむしろ好きな方ではないかと、そう思う。誰かとバッハについて熱く語り合いたい。
そんな私だが、最近某所で仲良くなった人が弾いてくれた曲から、米津玄師という人のLemonという曲を知った。(有名なんですってね、と友人に話したら、少し前の曲だけどね、と言っていた)
ちなみにレモン、と聞くと、私なんかは高村光太郎さんの檸檬の詩を思い出す。そして、死が浮かびあがる。
国語や現国の教科書に載っていた、あの詩だ。妻である智恵子さんのその瞬間を写している有名な詩で、高村光太郎さんという方の表現者としての凄まじさを感じさせる一編だ。最初に読んだ時は、まだ若かったからかそこまで感じなかったが、愛する人の全てをここまで赤裸々に写し取るものだろうかと、読むたびに驚かされる。
まだ、私達自身は死を経験していない。だが、死、と聞くと思い浮かぶ概念が誰にでもあると思う。その概念は、先程の詩のように、言葉や映像などで情報として入ってきたり、直接的または間接的に死を身近に経験したりして、人生の中で作られてきたイメージだ、とも言える。あなたの中にある、死、というもののイメージはどんな感じだろうか。
私の場合、死は、別れと直結しているイメージになっている。
この世との別れ。
大切な存在たちとの別れ。
自分、という今生の自我との別れ。
さらに言うと、別れ、とは<終わり>のイメージだ。今、得られている愛の交流や、喜びが終わるような感じ。愛したものに触れらなくなるような、二度と存在が感じられなくなるような、喪失感。
今、ここにあるあたたかさが決定的に終わって、消えて、失われてしまうような感じ。
米津玄師さんのlemonという曲には、歌詞がついているとのことだったので、気になったので調べてみた。すると、その中で一か所だけ、少し印象にのこる言葉があることに気がついた。
雨が降りやむまでは 帰れない
そのとき同時に、そのフレーズについてちょうど語っているツイートも検索にひっかかっていたので、それも読んでみた。
あるお母様が、小学生低学年の息子さんから「なぜ雨が降りやまないと帰れないのか?」と質問されたという話だ。そのお母様は、「傘がないからじゃないか」と彼に答えたらしいのだが、息子さんは、
悲しくて、心の中に雨が降っていて動けないってことじゃないかと、僕は思う。
と答えたという。
死による別れや終わりは、その関係性が苦しみだったのならば、救いになる。だが、愛しているなら愛しているほどに、苦しく、悲しいものになる。愛と比例して、耐え難いほどの深い悲しみの雨が私達に降りそそぐ。
’この世’のすべては、儚い。この世に永遠はなく、もしそれが始まったのならば、それが終わるときも必ず来る。終わってしまえば、二度とそれに触れられなくなるし、肌で感じることもできなくなる。死は、その最たるものではないだろうか。なぜ、こんな仕組みになっているのだろう。私自身、それを耐えがたく思うときもある。
だからもし、その雨が私たちに降っているなら、動けなくていい。
その雨は、自然なことで、自分たちの力ではどうしようもないからだ。
そして、雨が降るのならば、今は雨が降るときなのだろう。そんな雨なのだから、やむまで帰れなくて当然だと、心からそう思う。
でも、
この活動をさせてもらいながら、日々、皆さんから学んで知っていることがある。
必ず、その雨を凌(しの)ぐための何かがおきる。軒下を貸してくれたり、傘をさしてくれる存在があらわれるのだ。その雨は孤独だが、不思議と一人になることはないのだ。もしかしたら、その存在は人でないかもしれない。もしかしたら、もう軒下に今いるのかもしれない。とにかく大きななにかは、あらゆる存在を通して、ふとした瞬間に、私達が凌げるように休ませてくれる。
そしてその雨は、きっといつか和(やわ)らいでいく。先程の話とは矛盾するかもしれないが、降りやまなかったとしても、また歩き出せるほどに、その雨はゆるやかに落ち着いていくのだ。もしかしたら、以前とは違う景色かもしれないけれど、再び光が差し、青空が広がりだすかもしれない。なんにせよ、いつも私達には大きな救いがあり、愛されている。そして、悲しくても、もしくは、悲しいことに、私たちは生きている。
そしてなにより、本当になによりも。
愛のカタチが変わるが、愛自体はまったく変わらないのだ。
カタチ、つまり、愛せる方法、愛し方が変わるだけで、そこに流れる愛そのものは、何も影響を受けない。
死によって、その存在を、もう傍で感じられなくなるのは事実だ。ただその代わりに、あなたが別れてしまった大切な存在を心で愛するとき、その大切な存在があなたの中に、たった今ここに、すぐ親しくあらわれる。その瞬間(とき)にそこに感じるあたたかさは、生前の時と何ら変わりがない。むしろ、以前よりあたたかく感じる場合もあるだろう。
どうしてもその時が来ると、今までのような関わり方がその存在とできなくなる。そのことを想うと、とてもさみしく、悲しい。けれど、愛自体は何もかわらずそこに起き続けていることに、ゆっくり私達が気づいていけたとき、さみしさや悲しさを抱えながらも、私達は再び深く生きていけるのかもしれない。
死は、ある愛のカタチの終わりでもあるが、新しい愛のカタチの始まりでもある。
皆さんや全体を通して学んだ事柄によって、結局、私自身が今日も救われている。
*
死が、私にも誰にとっても、遠い未来の事であることを、そしてもし、今まさに雨が降っているなら、それが和らぎ、いつか晴れることを心から祈りながら、必ず終わるこの儚い今を、今日も大切に愛しながら暮らしていこうと、そんな風に思っている。
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