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執筆者の写真Mami Sato

優しい世界




大空を自由に飛んでみたり、草原の中で行き交う人をぼーっと眺めてみたり。

最近の、私の気晴らしのひとつだ。




なんのことはない。ゲームの世界の話である。




きっかけはいつだっただろうか。 確か、今年のはげしい梅雨がようやく落ち着いた頃だったと思う。

スマホのスケジュールアプリでをご予約をチェックしているときに、広告動画が流れた。私が使っているようなフリーのアプリは、無料である代わりに、いろんな広告の動画を自動的に流してくるものも多い。だから、その日も「あぁ、いつものCM動画ね」と、やり過ごすべくスマホを伏せようとしたのだが、そのとき、二人の子供が手をつないで空を飛んでいるアニメのような映像が、ちらっと見えた。


その映像のもの珍しさから、最後まで結局観てしまったのだが、どうやらゲームの宣伝のようだった。そして、観終えたときに、あの感覚がきた。


説明するのは難しい。ただ、この感覚が来たときは、何も考えずに<ただ、のる>ことにしている。それが私に何をもたらすかは、わからない。その理由を探ることもできるが、特にその必要がなければそれもしない。答えは、いつか自然にわかることであり、ギフトであることは知っているからだ。だからこの時も、仕事用のアプリくらいしか入っていなかったスマホに、そのゲームをインストールした。



私は、スマホやパソコンに長く触りすぎると、依存というか、自分の軸が揺れてしまうところがある。すると、大切な勤めの質が下がるので、ご予約の状況に合わせて、本当にタイミングがいい時にしか、電子機器を長時間、触らないことにしている。それもあって、しばらくそんなゲームをインストールしたことを、すっかり忘れてしまっていた。 でも、ある日、一斉にメールをし終えて、さて、と一息ついたとき、ふっとそのことを思い出した。



そのゲームを起動してみると、簡単な物語が流れはしたが、それ以外は特になんの説明もないまま、それはいきなり始まった。どうやら、見知らぬ空間に立っているこの子供が、私自身らしい。でも、綺麗な星空の下、ぽつんと立っているこの子供を、どうしてあげればいいのか全くわからない。なんせ、こんなゲームはしたことがないのだ。それでも、スマホ相手に四苦八苦しているうちに、少しずつ前後に動かせたりできるようになった。しかし、私の戸惑いそのままに、画面の中の子供も、あやしげな動きをしている。現実世界なら、即、職務質問されるだろう。


と、その時、黒っぽいなにかが駆け抜けていった。・・・自分以外の誰かが、いる。つまり、このゲームは一人でやるゲームではなく、いろんなプレイヤーが同時にいるという、オンラインゲームではないか。どこもかしこも未経験すぎて、謎めいたテンションが上がってきた。


すると、テンションが上がっている場合ではない私の所へ、なんと、先程の黒っぽい誰かが戻ってきたではないか。そして、首をかしげて私の様子をしばらく眺めた後、光を灯して自分の姿を見せてくれた。少しカラフルなマントをつけた同じような子供の姿が浮かび上がる。「おぉ!」と感動していると、今度はその子が手を差し出してくる。どうやら、私と手をつなごうとしてくれているらしい。しかし、見知らぬ人と手をつなぐのは、ゲームと言えど勇気が必y・・・と一瞬思ったが、伝わる気持ちを信じて、その手を取った。



途端、翼が羽ばたく音がして視界が上がった。

高く空へ飛びあがったことが、目の前に広がる雲の海でわかった。





そして、私を連れていってくれたのだ。この先の進むべき場所へ。





かくして今日も、このゲームを私は続行中である。そしてあいかわらず、折々にふれる人の優しさ、あたたかさに驚き続けている。現実世界とは少し違う、優しさの質を感じるのだ。

なんというか、優しさにためらいがない。

飾られていない、純粋な優しさ。



なぜだろうか。

個人的には、この世界にはおそらく、社会に存在する色々なことが<ない>からではなかろうか、とそんな風に感じたりしている。何がないのだろうか。


この世界では、戦いがない。 圧倒的な困難はあるが、倒すことは絶対的に不可能となっており、どうしようもないのだ。 それはまるで天災のようで、やり過ごすことしかできない。だから、私達はお互いに助け合ったり、自己研鑽して力をつけたりして、なんとか乗り越えていく。もし、相手を傷つけるための剣や、強さや豊かさを数字で表すレベル付けやお金でもあれば、プレイヤー同士で争うこともあったかもしれないが、そんな仕掛けもない。


そして、やはり詳しい説明がどこにもない。

どこもかしこも未知の世界である。 こうなるともう、知っている者に助けを求めるか、見知らぬ世界に勇気一つで飛び込むしかない。困ったとき、どうしたらいいかわからなくなったとき、一人ではできないことをするとき。見知らぬ誰かに助けを求めることは、時に、とても勇気がいることだ。断られる日もある。でも、きっと誰かがその手を取ってくれる。なぜなら、ここでは知らない世界を飛ぶ不安を、誰もが公平に経験して知っているからだ。同時に、助けてもらった優しさも。 だからその誰かは、自分がその時にできることをやり、知っていることを教える。私がその優しさに頭を下げると、ハート投げて軽やかに去っていく。私もいつか誰かに返したい、とそんな風にも思う。



そして最後に、言葉がない。(※)

あるのは気持ちを表現する方法だけだ。 会話ができないので、国、性別、年齢、経歴、言語など、いわゆる<背景>がみえない。<背景>がみえないと、○○人だから、○歳だから、というように、判断する思考をくっつけて、<あなたと自分は別の存在>という風に分離させることがない。すると、公平さと個性だけが残る。だから、ここでは誰もが同じ存在で、それぞれが個性と気持ちのままに自由に過ごしている。そして、気持ちが通じ合えたら幸せで、笑いあえたら楽しく、助け助けられたら嬉しい、とシンプルだ。




ゲームだから、成立している部分もあるのだろう。

まだ見えてない部分もあるのだろう。




それでも、たった今優しさをくれたのは、共に笑い合ったのは、実際に現実を生きている世界のどこかの誰かなのだ。過去や生まれなど、色々な背景で上下やジャッジをせず、シンプルにただ同じ存在として、共に愛で過ごしたとき、そこには自然に優しい世界が現れる。言葉はなくとも、感謝を伝え合い、助け合い、喜びを共に踊る。するとそこに、優しい、あたたかい空気がいつも必ず現れる。


私たちはわざわざ、

争ったり、恐れたり、競ったり、区別したりしてきたことで、


少しだけ、世界を複雑にしすぎてしまったのではないだろうか。




本当はどれも必要がなかったのではないか。



ただ、愛するだけで、良かったのだ。



今も、二人の子供が手をつないで空を飛んでいる、あの映像が目に浮かぶ。そして今では、胸の奥が締め付けられるような気持ちがやってくる。

おそらくこれが、私達が向かうべき世界なのだろう。 そのために私たちは、今、何を選択すればいいのだろうか。


その答えを、体感している気がする。 その選択によっては、もっと荒れる世界にもなるだろうし、もっと優しい世界にもなるだろう。


そしてそれは、ゲームの世界だろうが、現実世界だろうが、変わらない。いつも私達次第なのだ。




まさか家にいながら、こんな感情や、気づきがもらえるとは思ってもみなかった。 まだしばらくは、ここで何かを学ばせてもらうことになるだろうと、そう感じている。

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