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執筆者の写真Mami Sato

不足のない輝き


中秋の名月である。

今、暗い空で、どこにも欠けのない満ちた月が静かに輝いている。



先程まで、あちらこちらから、賑やかに響いていた子供たちの声も、夜が更けるにつれて静かになっていった。私の住む地方では、十五夜の夜だけに許された風習がある。満月の光が届く間は、月の神様へのお供え物を、子供たちは、自由に持っていっていいことになっているのだ。社会公認のドロボウである。


私も毎年、小さな後輩ドロボウ達に貢ぐために、たくさんお菓子を用意したりしていたのだが、年々、世情も変化し、今では子供たちの同級生がいる家にしか、かわいいドロボウ達は訪ねていかない。もう、玄関の内側で「ちぇ、このお菓子かー」という残念そうな声を聴いて、なぬ来年まってろよ、と、お菓子に凝(こ)る楽しさ面白さはなくなってしまったのだが、今年もこうして外から聞こえてくる声に、どうやら今年もこの風習はなくなっていないことを知って、ホッと嬉しくなった。とはいえ、外の喧騒とは裏腹に、我が家の中は今とても、静かだ。


と、たった今の私の話をしたのだが、



今夜、あなたはどこからこの月をみているのだろうか? どこにいる、と私が想うとき、どの場所にいるか、ということには、実はあまり興味が向かない。 それよりも、今、人生のどのあたりにいるのか、ということに心がいつも向く。



何を思っているだろうか、何を今しているのだろうか。 万が一、夜道だとしても、月の光がその足元を照らしていますように。



月は、いつも静かだ。



宇宙に浮かんでいる衛星だけあって、地上のめまぐるしさとはまったく無関係だ。どんなに嵐でも、雲で隠れたとしても、どんな事件が起こったとしても、何の影響も受けることがない。そもそも存在している世界が、次元が、違うのだ。



今夜のような、完全に満ちて輝いている月を眺めていると、少し「魂」のことを想う。

私は、しばしば【対話】で「魂」の話をする。それはあくまで、ある段階までの便宜上の説明にすぎないのだが、「私達の内側には、空間が広がっていて、その空間を「心」と呼ぶなら、さらにその奥底に、生まれてから今日までずっと存在している「自分」というエネルギーがある。これを「魂」と呼んでみましょうか。」と、こんな風に、話をしていくのだ。

今夜で例えるなら、魂はあの満月で、心はこの地上そのもの、といったところだろうか。



心は、地上のように目まぐるしい。傷ついたり喜んだりと、感情やら、思考やらがいつも起きたり消えたりしている。そして、ショックなことがあったり、深く傷つくことがあると、大きく揺れる。今夜のような静かな夜もあれば、嵐の夜もあり、不安定なのだ。でも魂は、満月が宇宙でいつも静かなように、揺れない。いつもそこで輝いているだけだ。


そして実は、この魂こそが、本当のあなただったりする。(もしくは、心よりも、真実のあなたに深く近しい、と言う方がいいかもしれないが)



夜空に輝く満月の如く。 地上がどんなに吹き荒れても、あらゆる瞬間、不足なく輝いていて美しい。





私は言いたい。 あなたもそうなのだ、と。

どんな出来事が起きたとしても、どんなに心が揺れたとしても。

傷ついても、怒りも、後悔も、ショックも、罪悪感も、すべて本当のあなたに、なにも影響していない。



雲で満月が隠れたように感じる時もあるかもしれないが、実際のところ、満月の方では何一つ欠けることはない。地上からみると、そう見えるだけだ。地上の日々は、とてもドラマティックでいとおしい。でもどんな時でも、満月はただ静かに輝いている。


今、子供たちの声は家に帰り、秋風に乗って虫の声が聞こえる。ついさっき、パトカーのサイレンが通り過ぎて行った。  


満月はなにも変わらない。

どの瞬間も完璧に満ちていて、静かに輝いている。




今、同じ月がそこからみえるだろうか。



あなたもまた、

どの瞬間も完璧に満ちていて、ただ静かに輝いている。





間違いなく。


満月の輝きを見る度に、いつも想う。 やっぱり綺麗だな、と。

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