自分らしい場所



いつもの散歩道がある。



私の住んでいるところは住宅街だが、少し歩けば、もう360°オール田んぼという、のどかな土地でもある。散歩していても、視界が広々として景色も遠く、のんびり歩くにはもってこいだ。そして私には、その時その時の散歩のブームがあって、黙ってひたすら無心で歩いたりする時期もあれば、Kindle(=Amazonの電子書籍リーダーのこと)にストックしている本を聴きながら歩き読書をしたり、リコーダーを持っていって、人気がないのを見計らってぴーひょろと練習しては、人影を見つけてはそっと遠くへ逃げたりしている。 そんな気まぐれな散歩だが、いつも変わらずやっている習慣がある。道端やあぜ道の草をじっと眺めることだ。その静けさと共にいることが心地よいというのもあるが、どの季節にどんな植物がそこに生えるのか、同じ植物でもどこにどのように生えるのか、本当に興味が尽きない。12月のこの寒風の中でも、つい田んぼの脇にしゃがみ込んでは、小さな草を眺めたり、触ってみたりしてしまう。道端の草は、どれも在り様が美しく、その完全さが不思議で、どの姿にも感動する。


周りを見渡すと、一見、色々な植物が雑多に育っているように見えるが、よく見ると意外とそうでもないことがわかってくる。土質や風の当たり方などの微妙な違いで、生育している植物の種類が決まっていたり、同じ植物でも姿かたちが違っていたりするのだ。例えば、エノコログサは、アスファルトの隙間からでものびのびと顔をだしているが、クローバーなどは、それなりに土があるところがお好みらしい。


また、そんなクローバーも、水辺に生えていたり、乾いた道の真ん中で生えていたりと、色々なところに生えているのだが、場所によって全く違う姿をしている。この寒い冬風の中でも、瑞々しい緑色と厚みのある葉で群生しているクローバーもあれば、小さく色あせた葉でかろうじて生きているように見えるクローバーもいて、同じ品種なのにと、その違いに驚かされる。

でも、考えてみれば簡単な話だ。


この寒い季節にもかかわらず、それでも大きな葉がのびのびと風にゆれているクローバーは、その様子から、ここは性質に合っていて生きやすい場所なのだろうな、とそう思う。しかし、別の場所では、いつみても、赤みかかった小さめの葉を地面に低く寄せていて、じっと環境に耐え続けているようなクローバーもいるのだ。彼らは、合わない環境の中で必死に生き続けているのだろうか。まるで、その場所から得られる少ないエネルギーの全てを、そこに存在し続けることだけに注いでいるようでもあり、「とてもじゃないけど、ここに居続けるには、生き生き風に吹かれるような余力や時間を持つことはできないのだ」と、言葉少なに伝えてくるようでもある。いつも植物は、いや、どんな生き物も、その場所に存在し続けるために、環境と適応しようとして一番最適な方法を模索する。


瑞々しい葉のクローバーは生まれながらの性質に合った環境にいるのだろうし、そうでないクローバーはその性質に合っていないのでつらい環境なのだろう。



そんな彼らを見ていると、人と似ている、とそう思う。 私達もまた、今いる環境が、本来の自分自身の性質に合っているならば生き生きとするし、そうでないならつらく苦しくなっていく。


嘘偽りない感覚が、どの瞬間にも内側に現れてきて、それを感じれば、すぐにここが自分に合っているか合っていないかがわかる。否、わかってしまうのだ。「合っていない」という感覚を、受け入れたくなくて、敢えて感じないようにその感覚にフタをする場合もあるが、それでも心身に圧(ストレス)がかかることには変わりがなく、それはやはり時間の経過とともにゆっくりと苦しさ、つらさとなって現れてくる。心、そして身体は、どうしても正直で、誤魔化しきれずに徐々にどこか何かに影響がでてくる。結局、私たちは自分に嘘をつくことができても、その嘘を最後までつきとおすことは出来ない生き物だ。根本的な自分の性質に合わないのなら、どうやっても合わないのだ。クローバーと同じで、合わない環境に存在し続けようとすると、そこにい続けることに精一杯で、のびのび楽しく生きることは難しくなる。



このことを想うと、わかっていても、いつも私の何かが切なくなる。



望んでも、合わないなんて。 そこにいたいと願っていても、つらく苦しくなっていくなんて。


なんということだろうか。






合う、合わないは、正しさや善悪とは次元の違う話だ。



生まれつき与えられた性質ゆえに、自然に起きる反応だ。なんの罪も悪意もない。なので、合わないからと言って自分やだれかを責めるのも不合理な話だし、合うからといって素晴らしいと持ち上げたり、悪いと見下げたりすることでも、特にない。だから、合わない自分を責める必要はない。(もっと言うと本当は、合わないあなたを誰も責めてはいない。)


望むものと自分が〈合わない〉事実に出会ったとき、私たちは深く悲しみ、傷つく。時に、絶望感さえやってくる。それをさらに責めるなんて、あまりに酷ではないだろうか。「そうなんだな」と、ただ事実を理解してあげるだけで、もう充分だと、そんな風に思う。



ちなみに、植物と決定的に違うところが、人には一つある。 なんと、環境を移動できることだ。


植物は与えられた環境から、自ら動けない。でも私達は、時に、場所を動いて環境を変えることが出来る。

もし物理的に制約がないのに、その場所から動くことができないなら、それはあなたの心がそうさせているのかもしれない。 私達の心(マインド)には、「納得したい」という共通の性質がある。

とことんやりつくしてみたい、ダメだと理解するまで自分で経験したい、と、こんな感じだ。例えば、「どうしてまた浮気したのに、彼を信じるの?」というような会話を、案外、皆どこかで聞いたことがあるのではないだろうか。


そのために私達の多くは、本来の自分を生きる前に、一度、<合わない>という経験を敢えて徹底的にすることで、<合わなさ>を感じきろうとする。やるだけやってもダメという経験、そして<合わない>ゆえの苦しさやつらさを得ることで、私達に<合わなさ>への限界を教え、合わないことがあっていいことを教え続けてくる。


もし、その経験の中で苦しさに限界がきたらどうしたらいいのだろうか。 私は、そこまでの挑戦が必要だったこと、そして、その挑戦をそこまで頑張ったことを絶賛してあげて欲しいと思う。そして、そこまで苦しくなったのは、ただ自分の願いを大切にしたかっただけ、愛したかっただけなのだということをわかってあげて欲しい。その真摯さ、一生懸命さには、いつも敬意を感じる。心身を壊すほどなら尚更だ。

そして何より、その辛さ苦しさは、自然な<合わなさ>であって、あなたの罪ではない。 こんなことは、誰にだって罪ではないのだ。あなたが悪いわけではない。(同時に、相手や環境が悪いわけでもない)合わなかっただけだ。 これを赦すと、ゆっくりと<合う>という感覚を選ぶことを自分に赦せるようになり、合う場所を選びなおして、落ち着けるようになっていく。もちろん、合わなさを敢えて生きても、全然OKだ。実は、合う、合わない、どちらを生きてもいいんだな、と好きな方を<選べる>ようになったとき、人はふっと楽になる。<合わない>場所を生きる「一択から解放」されたとき、心は楽に、自由になるのではないだろうか。 仮に、もしもあなたが自分に合う場所を選びなおしたならば、きっとその先で、実は<合わなさ>を生きるよりも、<合う>を生きる方が自分が輝いていくことに、ある日、気づくだろう。でも、合わなさを生きている時も、合うを生きている時も、今日までのあらゆる瞬間が、全てのプロセスが、どれも美しかったのだ。もちろん、今も、これからも。

道端の草は、いつもどれも在り様が美しく、その完全さが不思議で、どの姿にも感動する。

きっと今日も、散歩に行けばまた田んぼの脇にしゃがみ込んでしまうのだろうと、そう思っている。



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